クロード・レジ来日に関する新たな情報を頂けたことと、
自分でも、思い出したことがいくつかあるので、
vol.2を発行したいと思います。
なんと、静岡の演劇祭中に、『Brume de Dieu(神の霧)』上映会があるそうです!!
http://www.spac.or.jp/f13mist.html
この映像でもわかるように、
実際彼は、ため息が出るほど美少年なのですが、
その美しさが、
どんどんどんどん、
瞬く間に、
歪んでいく。
思い出すのは、
キャサリン・ダンの小説『異形の愛』

http://www.amazon.co.jp/異形の愛-キャサリン-ダン/dp/4893422278
見せ物劇団の団長が、妊娠中の妻にあらゆる薬物を投与し、
奇形である<フリーク>の子どもたちを産ませていくおはなし。
型にうまく入らない、
「パッケージ」できない存在は、
極力無視していこうとする最近の世の中で、
どうしても、ごつごつした嫌悪にも似た感情こそが、
幾度となく、
長年に渡って、私を振り向かせようとするのはなぜだろう。
この「異形の美」こそが、
実際、『Brume de Dieu』の上演中に
彼らが浮かび上がらせたもの。
美しいものは、どうやら流行廃りがあって、
入れ替わり立ち代わり去っていくのに、
「異形の美」は、引っ掻き傷をつけていって、
そのときの、カサブタは未だに消えない。
以前、自身のブログでも触れた、
(過去のブログ:私が一番嫌いなエクササイズと演劇における『不確か性』について)
私のバイブル、
エリカ・フィッシャー=リヒテ『パフォーマンスの美学』
(Erika Fischer-Lichte/Ästhetik des Performativen)

http://homepage2.nifty.com/famshibata/
彼女が、この本で、第七章 世界の再魔術化 1「演出」の項で、
「演出」とは、「世界の再魔術化」であると述べています。
(以下引用)
何かが起こり得るような状況を構想すること、
それこそが演出なのだ。(中略)
そこに現れるもの、目に見えないもの、日常のものが目を惹くようになり、
まさに変容して現れること、
そして、他方では、知覚者がその知覚行為の中で、
動きや、光、色、音、匂い等々に、いかに触発され、変容されるかに気づくようにすること、
それらを目指すのが演出なのである。
この意味で演出は、
世界の再魔術化、
そして上演にかかわる者の変容を目指す一つの手続きとしても定義し、説明することができるだろう。
この文章を読むと、
観客としての私に生じた「筋肉痛」が、
いかに、尊く、奇跡に満ちあふれた経験だったかということがわかる。
1952年から現在に至るまで半世紀以上も、
演劇界の頂点に君臨し続け、
それでも、すべてのことがらに「寛容」を持って、こだわり続けてきた
演出家クロード・レジだからこそ、
常に「今」の観客と、
「今」を生き続けられるのだと思う。
トゥールーズでも『Brume de Dieu』公演の前に、
彼が、学生向けに行ったレクチャーのあと、
彼と一緒に仕事をしたことがある友人のあとについて、
私は、片言のフランス語で挨拶した。
まだ、なんの経験もない、
フランス語も満足にしゃべらない私が、
「コンセルバトワールに入って演劇をやります」
と、言ったら、
満面の笑顔で、
「すばらしい」
と、一言。
冬の寒い日の夜に、
誰かが先に入って、
あっためておいてくれた布団の中みたいな柔らかさだったと思う。