誰もが一度は感じたことがある感覚だと思うけど、
感情的な「不在」は、「後悔」に変わることが多い。
なぜなら、一生、自分が「存在」すべきだった場所で流れた時間を感じることは、
もう、決して出来ないから。
ずる休みした日に限って、
教室で、
なにか特別なことが起こったりする。
もしくは、4時間ある授業のうち、1分たりとも得るものがなかったりもする。
もしくは、出席したせいで、1日中ブルーな気分になったりする。
今年に入ってからずっと月曜日のコンセルバトワールの先生と冷戦が続いているので、
小学生みたいだけど、
学校に行くか行かないかの躊躇の時間が半端なく長い。
そして、いやいや学校に行くから、
私のモチベーションは低く、
「冴えない生徒」と化する。
長らくの間、先生の前で作品を発表するのを避けてきたけど、
昨日いろいろ反省したばかりだし、しょうがないから発表しようとしたら、
「お前は、生きているのか?」
と言われた。
死んでいるように思われるって相当だなと思い、
ポール・クローデル『L’échage』を発表。
そして、終わると「悪くない!」と一言。
何をしゃべっているかわかると言われた。
また、発音のことしか言及してもらえないのか、と思いきや、
「発音のことしか言うことがなかったから、発音のことしか言わなかった」
と言われた。
「演劇において、役者は、状況の中でしか存在できない。」
発音がいいとか悪いとかじゃなく、
最低ラインとして、「意味」が伝わらないと、
役者は、もはやそこには存在しない。
つまり、相手役との関係性だったり、シチュエーションだったり、
そこがわかった上で役者が見えてこないと、
どんなにその役者が面白くて芸達者だったとしても、
「演劇」としては成立しない。
なぜなら、一方的なテクニックは、
創る側の「アイデア」でしかないから。
頭に突如ひらめいた「アイデア」は、
まるで輝かしい、飛び級した天才児のようだけど、
彼を彼のまま、扱うのは危険。
「アイデア」は「アイデア」らしく、
謙虚に待機して、
充分に耕してから。
それから、久々の声楽の授業。
出来ないとしっかり自覚していることに関しては、素直。
先生の言われるがままに、声を出していったら、
すごく褒められて私だけ、
発声だけじゃなくて、歌曲まですすめた!
トンマーゾ・ ジョルダーニ作曲のアリエッタ『カーロ・ミオ・ベン』(伊語:Caro mio ben )
次のレッスンまでに、
フランス歌曲かイタリア歌曲を一曲選んでくるように言われた。
音痴な私が、オペラ歌曲に挑戦する日が来るなんて、感激。
締めくくりは、ドラマツルギーの先生に絶対に行け!と言われた映画、
アティク・ラヒミ(Atiq Rahimi)監督のアフガニスタン映画
『Syngué Sabour – Pierre de patience』(シンゲ・サブール、忍耐の石)

2008年のゴンクール賞受賞作で、
なんとアティク・ラヒミ著者本人が監督を務めている作品。
白水社から「悲しみを聴く石」(関口涼子訳)というタイトルで2009年に出版されています。
http://www.hakusuisha.co.jp/detail/index.php?pro_id=09005
私は、フランス語訳でしか読んでないのですが、
一冊を通して、女性のモノローグのような形式になっていて、
とても演劇的。
ゴルシフテ・ファラハニ(Golshifteh Farahani)によって演じられた主人公の女性像は、
強く、そして、美しい。
過酷な環境や、彼女を取り巻く男性との関係が、
彼女を強く、そして、美しくしたのではなく、
やはり、
物語の中の女性が、
そして、
彼女を演じる女優が、
強くありたいと、そう強く望んだから、
この映画のラストの極上のカットが存在するのだと思う。
映画界にこんなにも美人な女優たちが溢れているのに、
彼女たちと同じ「女」という性に生まれてよかったな、
と思えるまでの作品に出会えることって、なかなかない。
強い女の作り方。
他者の評価を介してではなく、
自分自身で自分に評価を下せること。
そして、
守られることよりも、
守るものを持つこと。
余談ですが、
実際一番苦しいときに、
助けてくれるのは、
you tubeの「情熱大陸」と、
いまだに尊敬しているマツコ・デラックスの動画です。