人間誰しも、好きな「人」がいるように、
好きな「こと」や「もの」があって、
これらが好きな「人」と違うのは、お金で買えると言うことかもしれない。
それでは、あなたの好きな「こと」「もの」って何ですか?
と質問されて、
私の思考回路は、あなたが値段を気にせず買ってしまうものは何ですか?
に変換される。
なぜなら、自分が特別好きなものに対して、
社会基準の値段は、あまり自分の価値基準と関係がないから。
例えば、前回帰国したときに購入したロラン・バルト『ラシーヌ論』
http://www.msz.co.jp/book/detail/07234.html
なんと、定価5,400円だったのだが、買ってから気づいた。
どうやら、私は、本を買うとき、
値段をあまり気にしない。
大人になりきれてないくせに、
「大人買い」してしまう。
私の、ロラン・バルトとの出会いは、
ロラン・バルト著作集2『演劇のエクリチュール』から。
ブレヒトに関して調べているときに、
ここにたどり着きました。
ロラン・バルトは、1915年生まれのフランスの批評家・思想家でありながら、
彼の文章は、まさに芸術そのもの。
初めて読んだ時など、
論じている内容は全く分からないのに、
その文章の隙の無い、
真っ白い白鳥のような文章に魅了しつくされました。
そこで、今回は、フランスで演劇を勉強する以上、
避けては通れない作家ラシーヌを好きになるために、
この本を買い、
おかげさまで、一瞬でラシーヌ大好きになり、
ついでに買った、桑田 光平さんの『ロラン・バルト―偶発事へのまなざし』を読みました。
http://www.amazon.co.jp/ロラン・バルト―偶発事へのまなざし-桑田-光平/dp/489176886X
この本は、とてもシンプルで気取りのない文章で、
国境を越えて、
ロラン・バルトのエクリチュールの影響を受けているなということが、
さっとわかるような、余計なものが削ぎ落とされた一冊。
締めくくりは、やっぱり、『恋愛のディスクール・断章』
http://www.msz.co.jp/book/detail/00482.html
いつか、原文で読める日が来るかしらと思いながら、
みすず書房に感謝して読破しました。
ちなみに、この本は、どんなにコントロール不可能な恋愛の悩みや主観的苦悩も、
いづれかの章によって、必ず第三者的視点を与えてくれるという画期的な本で、
雑誌の、恋愛お悩み相談コーナーなどより、
画期的に効果があります。
ところで、みすず書房で出しているこれらすべてのロラン・バルトの翻訳は、
なんと表紙の装丁がフランスと全く同じだそうで、
http://www.msz.co.jp/book/author/13904.html
初めて稽古をしに来たコンセルバトワールの友達が、
私が家中に、飾ってあったロラン・バルトの本を見て、
ロラン・バルト日本語バージョンだー!!!!!
と言って、一気に打ち解けることが出来ました。
さらに、金曜日にあった初めてのドラマツルギーの授業で、
理論系の授業が初めてだったので、
フランス語ついていけるか心配していたのですが、
なんと、扱ったのは、まさかの『恋愛のディスクール・断章』!
FRAGMENTS D’UN DISCOURS AMOUREUX
「第一章 底なしの淵に沈む」
を読んで、
各自がそれぞれの解釈を提示し、
直進しながら、各自が選んだ文章を朗読し、
真ん中に来たところで、
文章を身体に転化させていくというもの。
もちろん、最近読んだばっかりだったので、
調子にのって果敢に挑みました。
こんな偶然ってあるんだな、と思いながら、
あっという間に原文で読む夢もかなったし、
初日の授業で落ちこぼれずにすみました。
ありがとう、バルト。
ちなみに、ロラン・バルトの文章で身体ごと吸い込まれてしまった文章は、
バルトが1966年から68年に、数度来日して書かれた
『表徴の帝国』L’EMPIRE DES SIGNESの中のすきやきに関するエクリチュール。
以下引用。
[中心のない食べ物]
すき焼きは、作るのにも、食べるのにも、さらに言えば、「語らう」のにも果てしなく時間のかかる料理であるが、それは調理が難しいからではなく、煮えるごとに食べられてしまうために、繰り返されるという性質をもっているからである。すき焼きには、その始まりを示すものしかない(食材で彩られたあの御座らが運ばれてくる)。ひとたび「始まる」と、もはやはっきりとした時間も場所もなくなる。つまり、中心がなくなってしまうのだ。ちょうど途絶えることのないひとつのテクストのように。
ロラン・バルトにかかったら、
私たちのどんな日常も「宝石」に見えてくるから不思議。