例えば、日本で、
片言の日本語で道を聞かれたりしたら、
見た目、かなりごつい西洋人のおじさんとかでも、
やっぱり可愛いな、と思ってしまうと思うし、
テレビで、外国人の芸能人が、
アクセントのある日本語で、
日本人が使ったら、品が悪いような言葉を発しても、
思わず、ぷっと、笑ってしまうと思う。
結論。
外国人による外国語は、
ちょっと、可愛い。
同様に、
その言葉を受ける側が現地人だった場合、
自ずとヒエラルキーの上位に位置させてしまう。
これは、舞台上でも同じことだと思う。
私が、外国語であるフランス語で演技する場合、
観客の評価は、甘くなる。
可愛くて、面白い。
つまり、小さい子どもをみている感じ。
出来ることを、出来ないように演じているのではなく、
本当に出来ないことを、それでも出来ると信じきって向かっているから。
自分より、弱い立場の人間に、
人は、いとも簡単に心を許したり、
受け入れたりする。
劇空間においても、自然の原理を超えない限り、
私の演劇人としての成長は、一切ないということは、
心のどこかで、わかってはいたのですが、
私の芸人魂「人に笑われることの快感」を追求する気持ちがなかなか、
そこから脱することを許さず、
かつ、
外国人として存在することが、
だんだん自分にとっての安全圏になっていたような気がします。
8区のコンセルバトワールの先生の演劇の本質とは、
何もしないで舞台に存在(present)する勇気を持てるようになること。
何もしないで人に見られることを受け入れ、
同時に、
何もしないでしっかりと観客と向き合うこと。
ここがすべての俳優のスタート地点だそうです。
ここをふっ飛ばすと「逃げ場」をいくらでも持っている俳優になってしまう。
毎回、授業の前半では、
人に見られる、
そして、
人を見る、
ということは繰り返します。
全員が円になって、
全員がたとえばAさんを見つめます。
Aさんは、Bさんを見つめたら、
それを感じ取って全員は視線をAさんからBさんに移行します。
Bさんは、全員の視線を感じ取ったら、
Cさんを見つめます。
こんな具合に、続けていくのですが、
このシンプルなエクササイズで得られる経験はちょっと尋常ではないものです。
さらに、この進化版が、
舞台上に椅子をひとつおいて、
客席から一人が立ち上がります。
全員、その人を見つめます。
彼は、全員の視線とコンタクトを保ち続けながら、(必然的に後ろ足で歩く形になります。)
椅子まで移動します。
途中でアクシデントがあった場合、
また新たに全員とのコンタクトを位置から取り直します。
椅子までいったら、
座る、
立つ、
皆にさよならを言う、
立ち去る、
タスクはこれだけ。
人に注目されている状態で、
まず自分のニュートラルな状態を探し、
その空間を自分にとって最も力が入っていない状態まで持っていくこと。
究極のエクササイズ。
さらにいえば、
絶対的な傍観者(=指導者)がいない限り、
行うことができないエクササイズ。
この先生のもとで、
私は、2週間のスタージュを受けて、
昨日が最終日だったのですが、
最後の最後で、
自分にとっての武器だった外国人であることを、
意図的に封印することが出来ました。
パートナーと授業外で稽古してきた15分程度のシーンをクラスで発表するとき、
前半うまくいってないな、と感じて、
こういうとき、自分のアクセントに逃げていたのですが、
我慢して我慢して、
とにかく相手に言葉を伝えることを徹底していったら、
声とか演技とかが、ふわっと自由になって、
もっと違うところで勝負できるじゃん!と思えました。
演劇に、「リアル」を勝手にもちこまない、
なぜなら、
そこでいま「起きていること」が演劇的「リアル」だから。
帰りに、先生に、
外国人でも、外国語でもなく、
竹中香子として、
ちゃんと存在できるような強度と勇気が持てるように頑張ります。
と、言ったら、
「なんにも怖いことはないよ。」
と言われました。
1年もかかったけど、
やっとフランスで「演劇」の勉強をする準備が整った感じ。
追伸:おかげさまで、ビザも更新できました◎