涙は、原因によって味や量がちがうらしい、
ということを昔どこかの本で読んだ。
例えば、怒りや悔しさのため、
流れた涙は、量が少なく、
塩味が濃い。
逆に、悲しいときや、嬉しいときに、
流れた涙は、量が多く、止めどなく流れるため、
味は薄い。
私は、誇れることではないけれど、
割と涙に関しては、
プロフェッショナルだと思う。
止めるも続けるも、
コントロールが可能だし、
上記の考察に関しても、実体験を持って正当性を指示できるし、
マスカラが落ちないように泣くことだって出来る。
なにかの小説に、
人間一人に対して一生のうちに流れる涙の量は決まっていると書かれていたけど、
私は、そうは思わない。
なぜなら、涙がいつも正当な理由を持って流れるとは限らないから。
つまり第三のパターンがある。
「排泄的涙」
身体から、出るものはたいてい汚い。
身体から分離したとたんに汚物になるから不思議。
涙に関しては、
身体から離れても、
詩的な香りをぎりぎりまで保っていられる方だと思う。
それでも、涙を排泄と捉えるなら、
人間が生きて行く上で必要不可欠な行為といえるだろう。
だから、「泣ける」映画!とか、「泣ける」小説!とか、「泣ける」ドラマ!とかが、
世の中にはびこっている。
私は、今のところ、
いい年して人前で泣くなんて恥ずかしい行為を、
必要不可欠な排泄的涙として続けるつもりだ。
「泣く」という行為は、実は想像以上に体力を要する行為なので、
どうせそのエネルギーを使うなら、
他人事より、「自分事」で泣きたい。
そのためには、
人生をよりドラマチックにするための日々の絶え間ない努力が必要なようで、
いつまでたっても脆弱で依存心の強い精神を、
恨みつつ、愛しく思いながら、
涙を流して、
再生していく。
こんなとき、
芸術を志すものにもかかわらず、
アリストテレスのカタルシス論を疑ってしまう。
「フィクション」としての悲劇に浄化作用はあるのか。
「フィクション」としての悲劇にしか浄化作用はないのか。
現実は、決して「フィクション」に負けない強度を持っている。
その現実を知っているアーティストだからこそ、
現実世界で流れる「排泄的涙」を超越しうる、
「フィクションによる涙」を呼び起こすことは出来るのかもしれない。
どんなに、
美しく、
無垢で、
洗練された領域なのか、
と想像に胸を膨らませる。