演出クラスの授業で、ウォーミングアップとして行われるエクササイズの中で、
私が一番嫌いなエクササイズがあります。
最大を10として、
空間を全員で歩き回る早さをランダムに4つ決めます。
たとえば、「2・4・9・5」とします。
全員が空間全体に、散らばって立っているところから、
同時に速度2で歩き始めます。
早さの切り替わりは、全員で相手を感じながら変えていきます。
オプションとして、
ひとつめの速度2のときに、
パートナーを決めます。
もちろん、エクササイズの間、一切おしゃべりは禁止。
とにかく、他者、そして、空間を、「聞く」
3つ目の速度9のときに、
速度2のときに決まったパートナーとおなじになるように、
ある「場所」をフィーリングで決めます。
4つ目の速度5のおわりに、
全員で同時に歩くのをやめます。
そして、1つ目の早さのときに決まったパートナーと一緒に、
3つ目のときに選んだ場所に行って、
抱き合います。
ここでの、パートナー選びが最大の難関…
常に空間を歩き回っているので、
お互いに見つめ合っていることも出来ないし、
相手も、自分をパートナーだと思っているか確認できないので、
勘違いかもしれない。
かつ、パートナー選びにばかり集中していると、
全員と速度をあわせられなくなってしまう。
私は、一回自分がパートナーだと思っていた相手が、
すでに他の人とパートナーを組んでいたので、
一人余ってしまい、
それ以来、
勘違いが怖くて、
このエクササイズが大嫌いです。
冷静に、このエクササイズについて、
分析してみると、
他の人が何を考えているか、何を感じているかわからない、という、
当たり前の「不確か性」が、
他者を「聞こう」とすればするほど、
膨れあがっていき、
空間をより危うい場所にしてくるのです。
去年、AICT演劇評論賞を受賞した、
平田栄一朗先生の『ドラマトゥルク―舞台芸術を進化/深化させる者』の、
http://www.amazon.co.jp/ドラマトゥルク―舞台芸術を進化-深化させる者-平田-栄一朗/dp/4883032787
「第6章 ドラマトゥルクと日本演劇」の中で、
上演分析中心の入門書として必読3冊があげられています。
『ポストドラマ演劇』ハンス=ティース レーマン (著)
http://www.amazon.co.jp/ポストドラマ演劇-ハンス-ティース-レーマン/dp/4810201376
『パフォーマンスの美学』エリカ フィッシャー=リヒテ (著)
http://www.amazon.co.jp/パフォーマンスの美学-エリカ-フィッシャー-リヒテ/dp/4846003280
『演劇学の教科書』クリスティアン ビエ (著), クリストフ トリオー (著)
http://www.amazon.co.jp/演劇学の教科書-クリスティアン-ビエ/dp/4336051054
2冊目の『パフォーマンスの美学』
この本には、もはや世の中にこれ以上、革新的な出来事なんて起こりえるのかと思えるほど、
舞台芸術史において、
「起こった」出来事が、
余すところなく書かれていて、かつ、見事に分析されています。
すべての事柄は、
「新しい」「革新的な」ものとして、そのとき、その場所で、起こっったものであり、
そして、いま、「過去」の出来事とみなされているだけなので、
ここを知らない限り、
「新しい」ことを目指すのは危険だと、
改めて感じました。
この本の「第3章 俳優と観客の身体(ライブ)の共在」
の中で、以下のようなことが書かれていました。
「ヘルマンが論じたように、上演の表現媒体(メディア)上の条件は身体(ライブ)の共在にある。これが成立するためには、俳優と観客の『行為する』人々と『観る』人々の二つのグループが一つの場所に集まり、ある一定の時間を共有しなければならない。(中略)
観客は、笑い、おもしろがり、ためいきをつき、うめき、しゃくりあげ、泣き、足を踏みならし、椅子の上で前後左右に身体を動かし、緊張した面持ちで前のめりになって舞台に集中し、あるいは、リラックスして背もたれに寄りかかるかと思えば、ほとんど動かなくなることもある。(中略)
俳優の演技は、観客の反応によって集中力が変化し、声が大きく深いにも、逆にますます魅力的にもなる。(中略)
このような不確定性は、十八世紀末以来、舞台芸術の欠点ないし厄介ごととして見なされて、いかなる手段によってでも取り除くこと、あるいは、最小限にすることが求められていた。(中略)
1876年、バイロイト祝祭劇場の最初の公演において、リヒャルト・ワーグナーは観客席を完全な暗闇にした。」
つまり、今では当たり前とされている、
上演中、客席を暗転にするという行為は、
観客の「不確定性」を排除しようという、
舞台芸術において、
最も意地悪で、不条理な行為だったのです。
私の大嫌いなエクササイズと同じように、
「不確か」なことがらは、
いつも、私たちを不安に、
そして、臆病にする。
でも、同時に、
「俳優と観客の身体(ライブ)の共在」の場で、
起こった小さな行為は、
ありえないほどの、
「どきどき」と、
「わくわく」を、
孕んでいる。
私は、この「不確か性」に、
舞台芸術の情熱を感じる。
客席の明かりをつけたまま舞台に立つ強度を、
パフォーマーに課すこと、
そして、
くりかえし同じものを上演するという、
上演芸術の「反復性」が、
いつ、どんなときでも「一回性」のものになることを期待します。