大学で哲学を専攻している男の子が、
自分で作品を書いて持ってきて、クラスで発表しました。
みんな、結構、戯曲を書くことに慣れているらしく、
今までにも、何人かが、
自分で作品を書いてきて、
発表していました。
「私は、幽霊です。」
という、一文から始まる彼の戯曲は、
簡単な言葉だけで、
構成されていて、
それだけに、
何とも深い…。
はじめは、
子どもじみた文章が続くのに、
最後の方に、
「意味、それは、涙です。」
「意味、それは、苦しみです。」
という、2文がいきなり入ってくる。
私は、この部分にやられました。。
彼が、発表し終わった後、
クラスのみんなが、
もっとこうやって演じたらいいじゃない?とか、
こういう言い方をしてみたらいいんじゃない?とか、
いろいろ発言してたけど、
彼は、
この作品を演じることに、あんまり興味がない。
と、あっさり一言。
そこで、私が名乗りを上げて、
この戯曲を受け継ぐことに。
前半、クラウンの要素がたっぷりの戯曲なので、
発音が悪いことが有効に作用すると思ったのです。
途中で、意味のない言葉をべらべらとしゃべるシーンは、
勝手に「外郎売り」に変えて日本語でやりました笑
現在、私が作品を発表する上での、
フランス語とのつきあい方は主に3通り。
1、フランス語がしゃべれないことをあえて、強調する。
2、フランス人に台詞を録音してもらって、ひたすら聞き、極力ナチュラルになるまで練習する。
3、日本語の翻訳を使う。
面白いのは、
完全に自分の身体と声の感覚が変わってしまうこと。
とにもかくにも、
これを、コントロールできるようにならないと、
「フィクション」としては、扱えない。
私は、
絶対に、
演劇の「フィクション」を冒したくない。
身体に負荷がかかればかかるほど、
「現実」を、
隠せなくなる。
作品を、発表して、
クラスでの討論のとき、
いつも、話題にあがるのは、
ある行為が、
「意図的」であったのか、
それとも、なかったのかと、
いうこと。
私が、フランス語の発音が、
めちゃくちゃ悪いことも、
「意図的」に使えば、
絶対に、作品として成立する。
と、思いたいと、思っている。