秋休み前に始めたジャン・ジュネ『女中たち』の稽古を、
授業外の時間に行いました。
ちなみにこの作品は、
実際にパリで起きた女中姉妹による奥様殺人事件をもとに、
犯罪者でもあるジャン・ジュネが、
なんと獄中で戯曲として書いたものです。
授業外の時間に、スタジオをとって稽古するのは初めてだったので、
極度の緊張。
しかも、私が演出。
先月、ある男の子が、他の作品で、
ワンピースを来て、女性の役をやったときに、
彼で、『女中たち』やったら、
絶対美しい!!と、直感して、
もう一人他の男の子に頼んで、
男の子2人に、女中姉妹を演じさせることに。
実験的に、一度、
授業で、ひたすら舞台上を雑巾で拭きながら、
それでも、女性であることを忘れずに、
という謎の演出をして、
バッハのクラシック音楽をかけて、
発表したら、
どうして、男二人でやるのか、
とか、
どうして、雑巾でふきながらだったのか、
とか、
興味をもってくれて、
しっかり稽古して発表しようということに。
ジャン・ジュネは、
この戯曲の中で、『「女中たち」の演じ方』として、
以下のような文章を残しています。
「女優たちは、生の色気を引きずって舞台にのってはならない。個人的な色気などというものは、芝居では舞台を下落させるだけである。」
「演出家は、わたしが戯曲を書いていたときに自分の中にあったもの、というか、はなはだしく欠けていたもの、つまり、ある種の人の好さというものを表に出さなければなるまい。つまり、これは一つの作り話(コント)なのだから。」
演出プランとしては、
上演中に役者はその役を演じていることを隠せないし、隠さない。
「所詮、フィクションでしょ?」という、
演劇に対する「批評性」を絶えず、持ち続けること。
そして、高尚な文豪の戯曲なんて、だしにして、
自分たちが目立つ!!!
「形式」というものを、
とにかく「裏切り」まくりたかったので、
あなたが夢中になっている「演劇」というものを「馬鹿にして」みて、
というニュアンスをつたえたかったのですが、
ここで、大きな文化差を発見。
日本で演劇というと、
ジャンル的に言えば「芸術」のカテゴリーに入ると思います。
だから、演劇をしている私たちの社会的な立場というものは、
どう考えても、そんなに高いものではありません。
フランスはと言うと、
演劇は、わりと高尚な「文学」から派生したもので、
中学、高校の試験でも必ずと言っていいほど、
マリヴォー、ラシーヌ、モリエールなどの古典が出題されます。
コンセルバトワールの存在といいい、
役者・演出家・戯曲家に対する社会保障といい、
演劇というものが、社会的にも一定の地位を占めていると言えると思います。
私は、日本の現代演劇とは、
「迫害」によって生まれたアートだと思っています。
近所の人に、
「私、演劇やってます。」とは、
なんとなく言いにくい、
この環境の中でしか、生まれなかった作品があると思います。
「演劇」をやっている自分たちに、
なにかしらの不安や恥ずかしさを抱えているからこそ、
生まれる「演劇」に対する批評性が、
コンセルバトワールという恵まれた環境で、
「演劇」を勉強している彼らには、
良くも悪くも、
薄いように感じます。
自分たちが存在する「演劇」というものを、
「馬鹿にする」ということが、
いまいちピンとこなかったようです。
でも、8ページもある台詞を全部しっかり覚えてきてくれて、
私のつたない演出も一生懸命、
聞いてくれて、
二人とも黒のワンピースを着ていたのですが、
それでも隠せない、
男の子にしかない身体の感覚とか、癖とか、
そのアンバランス差は、まさに絶妙。
とにかく、
「リアル」ではなく、「フィクション」を保ちたかったので、
身体を極力、不自由に演出してみました。
とりあえず、
明日授業で、
中間発表してみます。
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クロです(クロで分かるかな・・・?)。
竹中さんらしいブログ続いてますね。
面白いです!
パリでの演劇修行、楽しい?苦しい?
どっちも?
多分・・・楽しんでいるのでしょうね、きっと・・・
頑張って下さい!
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