『春琴』@世田谷パブリックシアター

念願の『春琴』、観てきました。
http://setagaya-pt.jp/theater_info/2010/12/post_206.html
Takenaka Kyoko web
春琴が、2008年に、初演された時、
わたしは、フランスにいて、
演出家のサイモン・マクバーニーさんの劇団、
『テアトル・ド・コンプリシテ』のことを知りました。
わたしが、当時、師事していた先生が、サイモンとおなじ学校出身で、
『コンプリシテ』という言葉を、しょっちゅう口にしていたからです。
コンプリシテとは、フランス語で、共犯者、共犯意識という意味の単語。
もちろん、舞台上の役者が、舞台上で価値観を共有する、というのは、
ごくごく自然なことと、思いますが、
わたしは、「犯す」というところに、大きなミソがあると思います。
何か、禁止されていることを、
他者と一緒に行う。
秘密とか、企み、陰謀を、
する仲間とは、
ある種、
家族以上の密なつながりが、必然的に生まれてくるのかもしれません。
たとえば、私がよく、レッスンで言われていたことは、
対立シーンでの、コンプリシテ。
観客から観たら、視線も合わせないほど、
憎み合っている二人の人物。
そんな、時こそ、この2人の人物を演じている、役者役者同士は、とてもとても濃いコンプリシテを要しているのです。
『春琴』でも、
そんな、役者、スタッフワーク、演出、テキスト、それぞれが、コンプリシテを確実に、
持っていることがうかがえました。
特に、メジャー、マイナーの切り替えが、素晴らしかった。
舞台空間に、おいて、
いま、どこにスポットが当たっているか、
いま、どこを一番魅せたいか。
わたしは、そんな彼らの企てに完全に引っかかってしまったような気がします。
役者さんにしても、自分が目立たないといけないところと、
他者を、目立たせないといけないところ、を全員であやつっていて、
ひとたび、素晴らしい演技を見せたかと思うと、
次の瞬間には、
まるで影のように、
舞台美術の一部になっていたり。
ただ、メジャーの人が、意気込んでやるから、目立つのではなく、
しっかりと、マイナーの部分を受け持っている人がいるから、
「やりすぎ」(レッスンでは、push too muchということばを使っていました。)
では、なく、鮮やかに洗練されて、
必然的に、目立ってくる。
そんな、計算された必然に満ちていて、
それでいて、淡い紅のクリームのような官能的な部分は、しっかり存在していて。。。
わたしは、思わず、
力強く、とろけてしまいました。

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