青年団第62回公演『革命日記』 劇評

$Takenaka Kyoko web
ただいま、ワンダーランド主催の劇評セミナーに参加しておりまして、
はじめて、劇評に取り組んでます。
http://www.wonderlands.jp/info/seminar2010/agora01.html
まわりは、すでにセミナーに参加するレベルじゃない人たち、多々なのでかなり緊張してますが、
わりきって、22歳のありまのままの視点で書きました。
そしたら、感想みたいになってしまった…
来週、それぞれが提出した劇評をもとに講評があります。
こわい。
でも、劇評を通して、自分が役者として、客観性を高めていけたらと思います。
単純に、文章でしっかり表すことのむずかしさもわかるし、未熟さも。。。
青年団第62回公演『革命日記』 劇評
観劇日:2010.05.10.
 今回の公演で、私の心を突いてきたポイントが2点ある。
 まず、第一に社会的「集団」内部の圧力と愛おしさについて。
 開演前、3人の役者がテーブルを囲んで、それぞれ思い思いに舞台上に存在している。開演と同時に、内部でのちょっとした言い争い、共通の知り合いの話、部外者の乱入などを通して、ただの、友人同士の集まりではなく、「集団」もしくは「組織」としての関係性が見えてくる。
 私は、まだ社会人として社会に存在したことがない。しかし、この「集団」という荒波に「個」として、確実に向き合ったことがある、と確信した。自身の年少期を振り返り、なにかとやっかいだった女子の仲良しグループを思い出した。中学校の女子テニス部。これは、知らない人でも少しはイメージできるかもしれないが、恐ろしい「集団」である。まず、不可抗力による、ヒエラルキーの発生。これは主に、顧問と生徒、学年による先輩後輩をさす。次に、現実と立場との相違。これは、後輩が先輩よりもプレイヤーとして優れている場合。さらには、容姿までもが、自分の「集団」のなかでの地位を決定づける。もちろん、日々変化し続けるものではあるが。しかし、このような目に見えるルール、はたまた目に見えないルールにしばりつけられながらも、秘密を共有し始める。そして、一緒にいればいるほど、確実に集団意識というものは芽生え、愛おしい存在になっていくのである。当時は、そこが自分の全てで、自分を自分でどう評価するかもすべてその「集団」での価値基準に従っていたような気がする。「集団」は「個」を生かすことも殺すこともできるのだ。今考えれば、教祖のいない「宗教」のような場所だった気さえする。
 こんなことを、作品の端々から想起させられるたび、胃がきゅっと締め付けられた。
 ただし、今回の場合、この「個と集団」というテーマを扱ったツールが演劇であるということは、ぜひとも注目すべき点であると思う。演劇自体、「集団」としてのあり方を常に問われている。そのなかで、しっかりと劇団制をとっている青年団が、この問題に真っ向からぶつかるとは、実に意味のあることだと思う。
 もう一点考えてみたいのが、立花と佐々木の言い争いのシーンで、その二人以外の舞台にいた役者たちと、観客との差異があまりなかったように感じた点である。青年団特有の口語スタイルは、有名である。しかし、今までいくつか作品を観てきたが、やはりどんなに実社会の一コマのようなシーンであっても、そのまま取り出したようなシーンであっても、私は舞台と客席との境目を確実に感じていた。しかし、今回の言い争いのシーンでは、二人以外の全員が、傍観者になったような錯覚を覚えたのだ。これは、本当に見事な体験だった。観客側も、それまでの時間と空間を役者とともに、共有してきたからこそ、あの空間に一心に立ち会えたのだと思う。これは、はじまってから時間軸が前後しない時間設定と、舞台空間が変わらない青年団のスタイルがなした、イリュージョンであると思う。

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