『朗読者』と舞踊論

 
$Takenaka Kyoko web
 ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』を読んでいます。去年の6月に公開された映画『愛を読む人』の原作本です。まだ、途中までしか読んでいませんが、とにかく文章が綺麗。どんなに、主人公が自分の内面的な感情を綴っていても、常に水面に文章が浮かんでいる感じで、プライベートな感じがしないのです。
大学の舞踊論の授業でフォン・クライストの『操り人形劇について』という著作について、学んだことを思い出しました。この著作はダンスが芸術として認可される先駆けになったものだそうです。
この著作の中でくり返し言われているのは、“grace”な動きこそ、素晴らしいということ。
(ちなみに“grace”とは、優美という意味の言葉で、他に恩寵という意味もあるそうです。)
ここで言われている“grace”な動きとは、フリーウォールを描くマリオネットの、100%操られた中での完全に自然な運動。つまり、ダンサーが外部から自身がどう見られているかを気にしてしまうと、“grace”は生まれないということです。
言い換えれば、「反省する意識」が少しでも入った瞬間、成立しなくなるものなのです。
しかし、人間は反省する生き物なので、なかなか“grace”を得ることはできません。
ここで、クライストはいくつか“grace”が得られた瞬間を例に挙げています。そして、その中のひとつに、「思春期の少年」というカテゴリーがあるのです。ここでは、思春期の少年が無意識的に、鏡にうつる何気ない自分の所作が、目に入った瞬間、それを自身でとても美しく感じた、しかし、もう一度その所作をくり返してみても、もう、美しくないのです。
長くなってしまいましたが、朗読者の主人公の男の子には、この“grace”な瞬間が彼の思春期時の描写において、連続的に感じられるのです。もちろん、年上の女性に対して、自分の行いを恥じたり、様々なことを試したりしてるのですが、それでも、「反省する意識」とはもっと別の次元で流れていっているように感じるのです。
ついでに、ストーリーのせておきます。
第二次世界大戦後のドイツ。15歳のミヒャエルは、気分が悪かった自分を偶然助けてくれた21歳も年上の女性ハンナと知り合う。猩紅熱にかかったミヒャエルは、回復後に毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか彼女と男女の関係になる。ハンナはミヒャエルが本を沢山読む子だと知り、本の朗読を頼むようになる。彼はハンナのために『オデュッセイア』『犬を連れた奥さん』『ハックルベリー・フィンの冒険』『タンタンの冒険旅行』といった作品を朗読した。
だがある日、ハンナは働いていた市鉄での働きぶりを評価され、事務職への昇進を言い渡される。 そしてその日を機に、ハンナはミヒャエルの前から姿を消してしまうのだった。
理由がわからずにハンナに捨てられて長い時間が経つ。 ミヒャエルはハイデルベルク大学の法科習生としてナチスの戦犯の裁判を傍聴する。そしてその被告席の一つにハンナの姿を見つけるのだった。

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